ソール・ライターの写真に日本を感じる理由
「なんて日本画のように美しい写真なんだろう。」
ソール・ライターの写真を初めて目にしたとき、アメリカで撮られた光景の中に、わび・さびを感じるまでに日本的な美しがあることに衝撃を受けた。
私がソール・ライターを知ったのは、2017年にBunkamura ザ・ミュージアムで開催された『ニューヨークが生んだ伝説 写真家 ソール・ライター展』のポスターを見たことがきっかけだった。メインビジュアルに使われていた、雪景色の中で赤い傘をさす女性を撮った写真は、日常の中に潜む美しさを静かに物語っていた。
ほとんど無名だったにもかかわらず、83歳にして一躍有名となった写真家 ソールライター。一体どのような人生を歩んできたのか?その人生と哲学、そして彼の写真に日本的なものを感じる理由を、展覧会で撮影した写真とともにまとめていきたい。
▼ 写真集『ソール・ライターのすべて』
Index
ソール・ライターの人生
まず、ソール・ライターがどのような人生を歩んできたのかを見ていこう。
1923年、ペンシルベニア州ピッツバーグで生まれたソールは、聖職者だった父による厳格な宗教教育を受けて過ごすが、その窮屈さから逃れるために、絵を描くことに喜びを見出していった。
アートへの想いは募り、父親の反対を押し切って23歳で大学を中退し、ニューヨークに飛び出したというのだから、その情熱は相当なものだったのだろう。
画家を目指していたソールだったが、生計を立てる主な手段は写真だった。特に1950年代以降は、『ハーパーズ・バザー』を筆頭に、『ELLE』『VOGUE』などの有名ファッション誌の撮影で活躍したそうだ。
1981年にファッション写真を引退した後は、青年時代から暮らしているアパートに住み続けながら、自分のためだけに作品づくりを行っていた。作品発表はせずに、ひっそりと日常の写真を撮って楽しんでいたという。
しかし才能ある者の宿命というのだろうか。ソールの作品を目にした人々のサポートにより、2006年に彼の写真集『Early Color』が発売されると、世界中で大きな反響が巻き起こる。
80歳を超えているにもかかわらず、ソール・ライターは“カラー写真のパイオニア”として、一躍知られるようになったのだった。
ソール・ライターの哲学
画家を志しながら、写真家として有名になったソール・ライター。
彼の写真が多く掲載された本『ソール・ライターのすべて』には、名声や金銭を欲さず、ただ純粋にアートを愛した彼の哲学を見ることができる。その中でも私が特に印象に残った人生哲学をいくつか挙げていきたい。
平凡なものへの想い

ソールは、日常の中にある光景を愛していた。
珍しいものや特別なものではなく、普段から目にするありふれたものを愛することは、彼の人生哲学の中でも特別であったように思う。
彼の写真のほとんどは、住んでいたアパート付近の通りで撮影されたものだ。平凡な主婦や掃除夫、子どもたちが、ただ歩いていたり、タバコをふかしていたりするごく日常の様子が収められている写真が、なんと多いことか。
ファッション誌の撮影をしていた時代でさえ、ポーズを決めている様子よりも、撮影前に口紅を直している様子など、モデルが「その人自身」にふと返った瞬間を隠し撮りすることを好んでいたようだ。
私が写真を撮るのは自宅の周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。なにも、世界の裏側まで行く必要はないんだ。
『ソール・ライターのすべて』より
アートを愛する心

アートを敬愛する心も、ソールが大切にし続けていたものだ。
ボナールやヴュイヤール、そして日本の画家である宗達たちの絵を収集していたソールは、自分のためだけに絵を描き続けていた。
作品を進んで発表することを好まなかったためか、彼の絵画作品の多くは生前に世に出ることはなかったようだ。しかし死後の展覧会では彼の絵が披露されており、そのレベルの高さに驚くはずだ。
ソールの目的が「有名になること」ではなく、「アートを愛すること」そのものだったことを考えると、彼の写真の色彩や構図があまりに美しいことに、納得せざるをえない。
……時折、真夜中に目覚めると私はマティス、セザンヌ、あるいは宗達の画集を開く。
『ソール・ライターのすべて』より
自分の存在を消すこと

目立たない存在でいることを志向したことも、ソール独自の哲学である。
彼が目立つことを望まなかったということは、彼の写真を見れば明らかである。高架鉄道の上や電柱の影から撮影したものなど、人々を隠し撮りしたような写真がほとんどだからである。
物陰から撮り続けていたからソールだったからこそ、人々のあまりにも自然な姿を収めることができたのだろう。華やかなものに気を取られないことで、日常の中にあるありふれた美しさに気づくことができるのだ。
私は有名になる欲求に一度も屈したことがない。
自分の仕事の価値を認めて欲しくなかった訳ではないが、父が私のすることすべてに反対したためか、成功することへの欲望が私のなかのどこかに潜んでいた。
『ソール・ライターのすべて』より
ソール・ライターの写真に日本を感じる理由
ここからは、私がなぜソール・ライターの写真に日本的な美しさを感じるのかについて、自分なりの考えを書いていきたいと思う。
日常の中にある色彩の美しさ

色の美しさを映していることが、日本的な美を感じる理由のひとつなのではないかと思う。
ソールの写真は色数が絞られており、シンプルなものが多い。中でも有名なのが、雪景色の中で赤い傘をさす女性を上から撮った写真だ。雪によって風景の色は消され、写真の中の色は傘の赤一点となっている。この写真を見たときに、私は「赤ってこんなに美しかったんだ」と気づかされた。
彼の視点で切り取られた写真を見ると、色の美しさに気づかされる。ソール自身もそのことを意図しているのか、次のように述べている。
写真を見る人への写真家からの贈り物は、日常で見逃されている美を時々提示することだ。
『ソール・ライターのすべて』より
決して華美ではないけれど、素朴な色の美しさを描いているという点で、日本と似た美意識を感じるのかもしれない。
控えめな視点を映す構図

何かを目立たせようとはしすぎずに、物陰から撮ったような構図の写真が多いことも、日本的な控えめな美しさを感じる理由のひとつだと思う。
ソールの写真は、被写体を真正面から大きく堂々と写したものがかなり少ない。隠れて撮っているために電柱がそのまま映されていたり、窓ガラスの内側から撮っているために雨粒で被写体がモザイクのようになっていたりする写真が非常に多いのだ。
私はかまえることなく世界をただ見つめるだけだ。
『ソール・ライターのすべて』より
普段私たちも、ポーズを決めている人を真正面から目にすることは滅多にない。座り込んでタバコをふかす労働者や、百貨店のウィンドウを眺めている婦人なんかを、すれ違う瞬間や、電車の窓から見ていたりする。
そんな日常の視点を映していることが、日本の自然な美しさを連想させる理由になっている。
ありふれた人と物

特別な人や物ではなく、日常で目にするありふれたものが映されていることも、日本の風情を感じる理由になっているように思う。
彼が好んで撮影したのは、世にも美しいモデルがポーズを決める姿ではなく、普通の人々が普通に暮らす様子だった。そのためニューヨークで撮られた写真なのに、日本の日常と重なって、懐かしいような、身近な気持ちになる。
また撮られている物も、傘や帽子、タクシー、バスなど、ありふれたものばかりである。彼の写真を見ていると、普段目にするものの色や形がこんなにも美しかったのかと、不思議な気持ちになってしまう。
写真はしばしば重要な瞬間を切り取るものとして扱われたりするが、本当は終わることのない世界の小さな断片と思い出なのだ。
『ソール・ライターのすべて』より
ありふれた人や物って、普段から目にしているのに、写真や映像として残ることは滅多にない。儚いものの一瞬の美しさを捉えていることに、私たちは日本的な美を感じるのだ。
まとめ
色々と書いたけれど、ソール・ライターの素晴らしさって、上手く言い表せない。彼の写真を見ると、日本の光景と重なって胸が熱くなるのに、言葉にしようとすると消えてしまうような感覚があるからだ。
今回の記事でもすべてを語れたわけではないと思うけど、ソール・ライターの魅力が少しでも伝わったら良いな、という気持ちで何とか書き上げられた。
『ソール・ライターのすべて』をまだ見ていない方は、ぜひ彼の世界に一度浸って、日本に似た風情を感じてみて欲しい。
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