山口小夜子の写真を通して見る「退廃の美学」
山口小夜子を知っているだろうか?
長い黒髪に、切りそろえられた前髪、切れ長の目というビジュアルで「日本の美」を象徴する彼女は、1970年代以降パリコレを中心に世界のファッションシーンで活躍し、「日本の元祖スーパーモデル」と呼ばれた存在だ。
彼女の死後に開催され話題を呼んだ展覧会『山口小夜子 未来を着る人』から発売された本には、退廃的で美しい彼女の写真が多数掲載されている。
今回は山口小夜子の写真を通して、「退廃的な美しさ」とは一体何なのかを、考えていきたいと思う。
▼『山口小夜子 未来を着る人』(東京都現代美術館)
山口小夜子が表現する退廃
『山口小夜子 未来を着る人』の中で最も退廃を感じたのは、和室の木材の床の上で彼女が寝そべり、虎のような目で遠くを見つめている写真だ。
退廃的とは「何か物事が衰退したり、破綻したり、腐敗したりしている状態を表す言葉」とされているが、彼女がいる空間は古い日本の建物であり、過去を象徴するという意味で、まさに退廃的なものを感じさせた。
私が彼女の退廃的な写真から感じたのは、死んだような空間の中で感じる、強い生命の力だった。小夜子を映した写真には、目に見える以上のものを感じさせる力があると思ったのだ。
彼女を最も多く撮影した写真家である横須賀功光(よこすか のりあき)さんの言葉からは、撮影した人からも生命力ともいえる何かが感じられていたことがわかる。
小夜子を撮り続けた横須賀功光が言っていた、「小夜子を撮るときはこれだなってところまで撮るんだけれど、写っているのはそれ以上なんだよね」。
『山口小夜子 未来を着る人』松岡正剛さんの追悼文より
また横須賀さんとの撮影についての語った小夜子の言葉からは、彼女自身も「見えないもの」を意識していたことが感じられる。
横須賀さんは、つねに空間に漂う「気配」を求めていたように思います。「気配」を切り取りたかったのだと思います。目に見えるものを超越した「気配」を感じたときにシャッターを押しているのだなと思うことがよくありました。
山口小夜子という存在がふっと消えて、光と影のなかで余韻だけが残るような瞬間がある、そのときにシャッターを切る音がしました。私自身にもわかる瞬間でした。
『山口小夜子 未来を着る人』より
「死んだような空間の中で、生命がうごめく様子」を映した写真を見て思ったのは、退廃とは「生」と「死」のコントラストだということ。そしてコントラストの中では「生」の意味がより一層強く感じられる、ということである。
退廃の中に見える「美」
退廃という「死」の空間の中では、「生」の力がより一層強く感じられる。
なぜなら私たちは、対称的な関係の中にあってこそ、両者を知ることができるからだ。例えば「闇」という空間がなければ、「光」の素晴らしさを知ることができない。同じように「死」というものがあってはじめて、「生」の尊さが理解できるのである。
闇の中を照らす光のように、死の中にある生は力強い。だから退廃の中に見えるのは「死」ではあるけれど、より際立っているのは「生」の美しさなのではないだろうかと思う。
横須賀さんが小夜子を撮影するときに感じた「気配」とは彼女の「生命」であり、まさに生の美しさこそが「退廃の美学」といえるのではないか。
山口小夜子が自身のことを、服だけでなくあらゆるものをまとう「ウェアリスト」だと名乗っていたことに表れているように、彼女は「生」そのものさえまとっていたのかもしれないと思う。
まとめ
服だけでなく、色をまとい、気配をまとい、空間さえまとうことができると言った山口小夜子。
独自の哲学を持ち合わせていた彼女だからこそ、たった一枚の写真からでも、あらゆるものの美学を学ぶことができるのかもしれない。
彼女の言葉や写真から感じたことは他にも多くあるため、今後備忘録的にまとめていきたいと思う。
私が衝撃を受けた写真集『山口小夜子 未来を着る人』も、合わせて見ていただけたら嬉しい限りだ。きっとあなただけの美学を感じ取ることができるだろう。
▼『山口小夜子 未来を着る人』(東京都現代美術館)
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