「何もしていない時間」なんてないよ
何もしないまま人生を過ごしてしまった。
内向的な性格の私はまさに、そう思うことが多かった。
子どもの頃から一人でゆっくり過ごす時間が好きで、人と比べると行動量が圧倒的に少ないと感じていた。過去に何をしていたか聞かれる度に答えに詰まり、「取り立てて何もしていない自分はダメな人間だ」と思っていたものだ。
しかし時が経ち、今は「何もしていない時間なんてなかった」と思うようになっている。なぜ私の考えが変わったのかについて、話をしたい。
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何もしていないと感じた場面
私は「今までどのような行動をしてきたか」と聞かれる場面で、「自分なんて何もしてこなかった」と感じることが多かった。
それは就職活動 / 転職活動のときだったり、知り合ったばかりの人との雑談で「学生時代は何をしていたの?」と聞かれたときだったりする。
私が答えに詰まってしまったのは、自分がしてきたことは何も結果を残していないから「行動」とは言えないんじゃないか、と思っていたからだ。
子どもの頃から、夜中の静かな時間に本を読んだり、日記を書いたりすることが好きだった。音楽を聴いて浸る時間も好きだったし、月を眺めてから眠ることもよくあった。日中は学校や仕事に耐えることで疲れ切っていたけれど、一人で過ごす時間だけは「本当の自分」のまま過ごせているようだった。
多くの時間を「感じたり」「考えたり」することに費やしてきたのである。
それは「何をしてきたのか」と聞かれたときの一般的な回答「部活をがんばっていた」とか「絵を描いていた」とか、そういった行動と比べるとパッとしないように感じた。「考えに耽っていました」とは答えづらいし、何だか動きが少ないように感じたのだ。
そして自問自答を繰り返した結果、「私は何もせず、ただボーっと生きてきたのだろうか」と不安になったのである。
「何もしていない時間なんて存在しない」と思うようになったワケ
「何もしていない時間なんてなかった」と思えるようになったのは、否定し続けてきた過去の自分を、受け入れることができるようになったからだ。
自分を肯定できるようになったきっかけは2つある。ひとつは「本を通して新しい考え方を取り入れたこと」、もうひとつは「過去の自分のおかげで今が幸せだと感じたこと」だ。
本を通して新しい考えを取り入れた
まず私に最も大きな影響を与えたのは、『神との対話』という本だった。
本に登場する神さまは語る。私たちの魂は「自分が何者か」を体験するためにこの世に生まれたのであり、「何かである」ためには、まず「そうではない」ことを経験する必要があるのだと。
否定があってはじめて、肯定がある。
「素晴らしい」という言葉は相対的なものだから、「素晴らしくない」とはどういうことかわからなければ、素晴らしいとはどんなものかを知ることはできない。
神は、愛が存在するためには、そして純粋な愛を知るためには、対称となるものが存在しなければならないことを知っていた。(…)そこで、神は偉大なる極、「不安」を作り上げた。
不安が存在した瞬間、愛もまた、体験しうるものとして存在し始めた。
『神との対話Ⅰ』ニール・ドナルド ウォルシュ
この言葉を読んでいるうちに「全ての体験には意味がある」と感じるようになった。「静かに過ごしていた時間」も実は「活発に動く時間」の極だったのかもしれない。もしくは逆に「活発に動く時間」があったのは「静かに過ごす時間」の素晴らしさを体験するためだったのかもしれない。
「引きこもりの時期」や「抑うつ状態で過ごした毎日」「怠惰に過ごした時間」なども全て相対的な素晴らしさを知るためであって、決して「何もせずムダに過ごした時間」ではない、と思えるようになったのである。
過去の自分のおかげで今が幸せだと感じた
また「過去の自分が過ごした時間のおかげで今が幸せだ」と思えたことも大きなきっかけとなった。
先ほど述べた「相対性」の話の体験版とも言えるだろうか。長く苦しみに耐える時間を過ごしてきたからこそ、実家を出て自分らしく過ごせようになった今が、すごく幸せに感じると思ったのだ。
私がさまざまな観点で文章を書けるのも、過去の自分がたくさん本を読んで、日記を書いて、音楽を聴いて、「感じたり」「考えたり」「内面と向き合ったり」することをしてきたからだ。
子どもの頃から過ごしてきた「静」の時間は、今の「動」の時間に繋がっている。静の私だけでは「不安」なままだったかもしれないけれど、動の時間だけでも「幸せ」を知るには物足りなかっただろう。
「あらゆる経験があってこそ今が幸せだ」と実感できたことは、「何もしていない時間なんてない」という考えに至る、大きなきっかけとなったのである。
静かなときも「何かをしている時間」
一般的に、目に見えるわかりやすい行動をしていなければ、「行動」とみなされないことが多い。
だけど私は「静かに過ごす時間」、つまり「内面と向き合う時間」や「何も考えない時間」も実は立派な活動であり、「何かをしている大事な時間」なんじゃないかと考えている。
これからの私は「静」の時間だけを過ごすことはないし、「動」だけで生きることもないだろう。
「感じて」「考えて」「耽って」「触れる」ような「静」の時間があるからこそ、素敵な「動」を生み出し続けることができるのではないかと思うのだ。
▼ 『神との対話』(ニール・ドナルド ウォルシュ)
▼ ナツリンの考え方系の記事だよ





